雅・処

好きなアイドル・俳優・映画・演劇などエンタメ一般やスポーツについて自由に語ります。

2019.3.6「チャイメリカ」観劇記 in 多賀城  

見れて良かったけど、好きとはいえない戯曲

(この観劇レポ、実は見終わった直後に書き始めていたのですが、まとまらず一旦保留。何日か経って、クールダウンしてから書いて良かったかもしれません。おぼろげに自分がどこに引っ掛かりを感じたか分かってきました。)


待ちに待った「チャイメリカ」がようやく宮城にやってきました。田中圭ファンになって2度目のナマ逢瀬(観劇)。前日は深夜残業した挙句に睡眠不足、観劇直前に東北OL民オフ会もあり、興奮しすぎてナチュラルハイになった気分と裏腹に、疲労で重い頭での観劇となりました。


いつものようにあらすじ以外の情報はすべてカットし、ネタバレ無しで臨んではおりましたが、キャスト陣からも舞台を見たファン達からの前評判的に「重厚で難解」という感じの印象を感じていたので、「ついていけるかな、私。大丈夫か?」とやや不安に思う気持ちもありました。


チケット売り出しの時は、あれほど入手困難なプレミアムチケットが、幕が上がると「チケット譲ります」メッセージを結構目にしていましたし、(転売ヤーのサバキもあるでしょうけど)「もしやこれって芝居がイマイチで手放しているファンがいるってことか?!」なんて、いらぬ邪推なんかして。


町の規模に比べてやや不釣り合いな感じの、無駄に空間が贅沢な多賀城市文化センター。県民とはいえ、このホールでの観劇は全くの初めて。広いロビーや劇場前には、女性観客がごった返していて、1000人規模のキャパがそこそこ埋まってるのは壮観な眺めでした。*1


平日の遅い開演で、仙台からも少し離れた立地ですから来れなくなった人もいたかもしれませんが、良く入ったなあ、お客さん。この成功が次の公演に繋がるので、ひたすらありがとう!な気分です。

役者のぶつかり合いに見ごたえあり

今旬の有名俳優が4人も集まった(田中圭眞島秀和満島真之介倉科カナ)キャストの熱演と隙のない脚本、栗山民也さんの冷徹な演出、これで見ごたえないワケがない。


天安門事件で戦車の前に立つ「戦車男」に魅了された一人のアメリカ人ジョー(田中)と、中国人ヂャン(満島)の友情を軸にした社会派劇。久しぶりに大人向けの重厚すぎて、見ているうちに引き込まれて胸が苦しくなるストーリーでした。


己の野望に突き動かされ、悪気なく周りの人を傷つけ振り回してしまうジョー役を演じた圭君は、1年未満の短いファン歴の中でも見たことのないくらいオトナな風格を漂わせていて、見慣れた可愛いイケメン人気俳優「田中圭」を微塵も感じさせませんでした。


ジョーの見せ場というと、なんかテスとの二人のシーンの飾らない会話が唯一楽しい部分だったので、実はそこしか思い出せないくらい。いつも「戦車男」に夢中すぎて、彼女を振り回していて挙句に別れて再会していたら、テスが妊娠。


「父親は誰?」と他意なく聞いて、テスの呆れた眼差しに驚く表情なんて、田中圭独壇場のラブリーさがいっぱい。本当は周りを引っ張りまわして、一番ダメダメな奴なのになんか憎めない、という役どころ、そういうのやらせたら、今ピカ一だなあ、圭君。  


結果的に叶わなかったけど、ヂャンを救おうとして「結婚しよう」と口にしてしまうジョーの罪作りさ(それが一層ヂャンを追い詰めてしまうのに)。無理だと分かっていても、その言葉だけにすがってしまう、ヂャン。


同性婚が出来るアメリカなら、それで永住権もとれるのだろうか。まあ、そういう現実的なことだけではなく、一人で籠っているヂャンは、「己の夢」や「魂の触れ合い」をジョーに求めていたのかもしれませんね。


満島真之介さんも*2、恐らく彼の演劇人生でも節目になるくらいの見せ場の多い役だったのではないか、と思います。鬼気迫る表情や絶望と悲哀をたたえた表情が印象的でした。「チャイメリカ」といえば満島ヂャンを思い出す、というくらい圧倒的な存在感でした。


初めてナマの舞台で見た眞島さん。声が良くて、優しさや実直さが全てにおいて色濃く出てくるのは、テレビドラマと変わらず。圭君や満島さんと対峙するときも、決して個性を邪魔しない。ちゃんと「そこに居る」安心感や怒っていても相手を想ってる、というところが見え隠れしてやっぱり素敵。


飛行機内で知り合ってジョーと恋仲になるテス役の倉科さん。「トクサツガガガ」とは全く違った、キャリアウーマン風に片意地張って生きてるけど、ちょっとお茶目でつかみどころのないテスがとても魅力的で圭君のジョーとお似合いでした。


20年も昔ですが、熱烈な竹野内ファンだった私だったので、元カノで、(写真でしか見たことなかった)倉科さんにあまり良い感情は持ってなかったのですが、今じゃ「竹ちゃん、勿体ないことしたな~」という気持ちになる、という(笑)。


一幕冒頭、ホテルの窓から天安門広場をカメラ撮影するジョーが中国当局に押し入られる、という只ならぬ緊張感からスタート。現代と近現代、アメリカと中国を行きつ戻りつしながら、疾走するお芝居。二幕に入るとどう収まりをつけるのか全く読めない展開に引き込まれていきます。


ヂャンの過去と加速度的に不幸になっていく現在に胸がしめつけられ、最後にすべての種明かしが分かると「うわあ」と溜息が漏れ、すごい濃密すぎな内容にクラクラとなって…ドーンと落ち込みました。

ストーリーが苦手

見終わった直後、あまりに救いようがないお話で滅入るし、後味が悪すぎ、と。圭君は好きだけど、この芝居は2回目を見なくていい。DVDも要らない、むしろ人生で二度と見なくていい、本当はそのくらい苦手、と思った芝居でした。


駄作じゃないんです。きっと忘れられない。この衝撃は忘れない。内容は忘れても、この背筋が凍るような、嫌な感じは忘れない。表面的に楽しいだけが演劇ではない、だからこそこの作品は「問題作」でありつつも名作なのでしょうね。


何日か経って思い起こすと、私は最初から最後まで不幸だったヂャンの存在に一番憤りを感じたのかな、と思います。過去に縛られ、自分を痛めつけるかのように生きているヂャン。まるで「生きる屍」のごとく。


個人のささやかな幸せや権利なんて、平気で踏みつぶす中国当局の問答無用なやり方。そんな巨大な暗黒世界に一人で歯向かっても無理なのに、もはや半分以上死んでしまっているようなヂャンは破滅に向かって突き進む。


見ていて、その姿があまりに切なく、いろいろ突き付けてきてシンドイのです。一体これってなんの試練?暗くて、見たくない、覗くのも怖い、見ないふりしてすれ違いたくなるようなシビアな悲劇。


 現実なんてこの芝居よりずっと残酷だし、人間は愚かです。


そんなの分かっている。でも憤りを感じてしまう。不幸に酔いしれるなよ、って。一方で、馬鹿みたいに「戦車男」に情熱を傾けるジョーの存在が、もしかしたらヂャンの生きる支えになっていたのかもしれないと感じることもあり。


戯曲を書いたのは、イギリス人の若手作家ルーシー・カークウッド。同じ年齢で、こんなすごい作品を書いていることに嫉妬を覚える、と言っていたのは圭君。確かにすごい脚本、人間の業みたいなのを、こんなにあからさまにさらけ出してくるなんて。


ナチス物や太平洋戦争とかあのあたりに似たような空気感を感じました。ただ自分が生まれもしない頃の話ではなく、‘80年代という充分身近な時代だっただけにさらに恐怖を感じました。かといって中国はこれからも変わらない。少しぐらい形を変えても、超大国になっても根本は変わらない。


私が子供のころは、中国は「化粧もせず、無表情で、人民服着た大量の市民が自転車に乗っている国」でした。母親が中国好きだったこともあり、人民日報グラフが家にあったり、中国語ラジオ講座が聞こえたり、当時はその牧歌的な時代を感じていたものです。


その前は、文化大革命でありとあらゆる歴史遺産や文化人を破壊しつくしてきたし、歴史的に見ても激動ばかり。どの時代に生まれても権力闘争や内戦で大変で、大多数の人々は押さえつけられ、搾取され、過酷な現実に追い込まれていたのが中国のイメージ。


イギリスという西洋から見ると中国の抑圧的な体制とか、非人道的に見えるんだろうな、と思ったり。かといってアメリカがすごく恵まれて良い国だとも思わないし、日本だって弱者切り捨ての国だし。そんなことをグタグタ感じたりもして。


私はどちらかというと、喜劇よりも悲劇のほうが好きな気がするのに、受け付けないものってあるようです。それは「救い」の有無なのかな。どこか絵空事と感じられるようなポエミーな悲劇や、「仕方なかったんだよね」で終わらせられるような邪気のない純粋さや、浄化された愛とか。


だからこういう毒にも薬にもなるような、否、なりすぎるような作品は、苦しくて好きになれない。矛盾は感じますが、でも圭君は好きだからね、見られて本当に良かった、キャストも素晴らしかったし、後悔はしない。


そして、より一層また、はるたんに会いたくなりましたよ。あの素晴らしい恋愛をもう一度!


miyabi2013.hatenablog.com

*1:「サメは泳ぐ」の時も、宮城では見たことないくらいの女性の大群でしたけど。

*2:ちゃんと演技する姿はあまり見たことがないので偉そうなことは言えませんが