雅・処

好きな俳優・映画・演劇などエンタメ一般やスポーツについて自由に語ります。

優しさって何だろう? 

最近、ズシリと重みを持って響いた言葉があります。愛するカシちゃん(貴城けい)がコンサート千秋楽で語ったという台詞、

 「人にいつでも優しくいられる自分でありたい」

という言葉です。その言葉自体はシンプルですが、大きな苦しみを経てきたであろう人が語ると、とても重い意味を成して響きます。


〜〜〜〜 以下は、カシちゃんとは関係ない単なる物思いです。〜〜〜〜〜


「傷ついた分だけ優しくなれる」よく使われる言葉です。裏返せば「傷ついたことがなければ人に優しくはなれない」のかもしれません。病気をしたことがなければ、その痛みが分からないのと似ています。もちろん、想像力というものがあるので、同情・哀れみ・共感といった感性を育てることはできます。そして「分からなくてもなんとか分かりたい」と歩み寄る気持ちは、素直に’尊い’と思います。


あちこち壁にぶつかって、自他共に深く傷つき傷つけてしまう・・・なんとも不器用な歩みをしている自分なので、この言葉の深遠さにひれ伏してしまいます。なぜなら「優しい」という言葉を人は普段、簡単に口に出しますが、よくよく考えてみると実はそんな簡単に実行できるものではないのではないか?と思ってしまうためです。優しさと信じていることは、単なる自分勝手な思い込みや独りよがりなのかもしれません。

もしかしたらその優しさは、

 表面だけを取り繕っていないか?
 ただの優柔不断ではないか?
 八方美人なだけではないか?
 自己満足、自分可愛さの表れではないか?
 自分の傷を隠すための言い訳ではないか?
 本当は自分以外の誰かを傷つけているかもしれない


一方で優しくあるということは、

 ときに厳しい叱責・叱咤にも耐えねばならないのではないか
 ときに深い苦しみも負わなければないのではないか
 ときに大事なものを捨て去る勇気も必要ではないか
 ときに認めたくない自分の本性と向き合う覚悟も必要なのではないか

優しさとは必ずしも甘ったるい同情の産物ではない、心が血を流す・・・ような辛い思いを何度も繰り返してようやく滲み出てくるこのではないか、と思います。

【変わることの難しさ】


たまに「かつての自分と今の自分は全然違う。私は変わった!」「いろいろと失敗を重ねて○年前とは全然違う私になった。」と嬉々として語る人がいます。残念ながら、私はその言葉を99%信じることができません。悲しいかな何十年もかけて積み上げてきた自分の性格はそうやすやすと変わってはくれません。本当に変わったかどうかは死ぬ瞬間まで分からない、と思います。


そしてまずいことに「最も変わりたい」と願い求める部分ほど自分の本質的な部分だから、変わるのが困難・・・というジレンマがあります。*1そして”変わった”と無理して思い込んでるだけで、違う部分がひねくれてしまったり、他人から見ると「一体どこが?全然変わってないじゃない!」ということにもなりかねません。


「自分をより良く変えること」「優しくありたい」ということは、大きな目標であって、果てしない努力と失敗が背中合わせです。時には振り返って落胆し、失望し、道を見失ってしまうかもしれません。一足飛びに都合良く変わるなんて神業ですし、それこそ最後まで目標は達成できないかもしれません(マズイ・・・汗)。


ただ失敗から学ぶことは、とても大きいと思います。用心深くなったり、思慮深くなったり、そうやって過去と見比べて「ああ、ここが進歩したな。前よりは、我慢強く良くなったな。」と自分を認めてあげることはできます。小さな一歩でも、それを積み重ねていけば多少の自信にはなるでしょう。


より良い自分でありたい、人に優しくなりたい、と望むこと願うこと、それが初めの一歩。そのために何をすべきか、どう行動するか、どこで自分自身と折り合いをつけるか、どう自分をリラックスさせてあげるか、何事も焦らずに無理をせずに、それを考えていかなくては・・・。


そんなあれこれをいつまでたっても不完全な自分へ、自戒の念と未来への希望を込めて、ここに記しておこう、と思います。

*1:どこかで変わりたくないと思う自分が抵抗している?